床拭き女の戯言
一昨日、パン屋のバイト帰り、駅でばったりバリ舞踊暦2年になった幼馴染に会った。彼女はステキなセレクトショップでウン万円で買ったという緑色のコートを着て、階段を下りていくところだった。

「最近どんな感じ?」
「あ、今度、経堂のギャラリーで踊ることにしたの。」
「へー。」
「800円だけどね。」
「えっ?発表会?」(聞き間違え・・・)
「違うよ〜。はっぴゃくえん。(苦笑)ま、まぁぁ・・発表会みたいなもんだけどね・・・(苦笑)」
「そうだよー。発表会みたいなもんじゃん!前座で踊らせてよ!」
「・・・・」
「っていうか、場所の下見がてら行こうかなぁ・・もう、私踊ってないと死んじゃぅ〜。」

本当に、踊ってないと死んじゃう人の気持ちを知っているのだろうか?
何のツテもコネも無く、自分の踊る場所を自分の足で探し、手製のチラシを配り、客が3人しか来ないような公演になっても、どんなに悪態衝かれても、ただただ踊るしかなくて、気が着いたら、30年近く金にもならない、むしろ消えていくばかり、しかも見ている人が楽しくなるような踊りを目指しているわけでもなく、何かメッセージがあるわけでもない。何の役にも立たない。それでも地味に踊り続けている。そんなバカの気持ちが分かるのか?

もちろん、分からない。分かってもらおうとも思わない。

彼女が私の踊りを見に来ないのだって、別に構わない(実際、見に来たのは付き合いで一回きりだし)。人には好みと言うものがある。それに、無理に見に来て嫌な思いをしてもらっても困る。
でも、私はそれまで仕事や健康面や男の事でタイヘンな思いをしてきた彼女を知っていたので、彼女がバリ舞踊を始めて「やっと生きがいが見つかった!」と喜んでいるのを見て、幼馴染としては、応援してきたし、実際稽古場を提供したりバリ舞踊教室の発表会に足を運んだり、自治会の催し物にも参加して踊る場を作ったりもしてきた。

だから、それでいいじゃん。



そうなんだけど・・・・

私が、中学の時に親と踊りを「辞めろ」「辞めない」で散々喧嘩して、泣きはらして学校に来た事も、四畳半風呂無トイレ共同のボロアパートで貧乏生活(今時流行らないけど・・笑)をしながら公演を打っていた事だって、毎週地味に稽古している事だって知ってるじゃん。


「発表会みたいなもんじゃん。」



今朝、毎日の日課になっている床の雑巾がけをしながら、ツラツラと一昨日の彼女との会話が頭に浮かんできて、気が着いたら私は雑巾に顔を突っ伏して、咽び泣いていた。
(2008年 11月 28日 (金))

映画「全部フィデルのせい」
もうずい分前に見た映画。
ふてくされた可愛い女の子のチラシに惹かれて観に行ったのだ。

見ているうちに、自分の幼少の頃とあまりにも重なりすぎていて、気が着いたら、独りで号泣。(泣けるような映画ではないはずなのに・・)
カメラのアングルが子供の視点だったので、尚更だった。
デモに連れ出され、埃っぽい中で腹立ち紛れにワザと人の足を踏んづける。狭い部屋で大勢の汚い格好をした大人がタバコの煙をモクモクさせながら、訳のわからない議論を交わしている。世の中を良くするのなら、「そういうところ」に寄付したりバザーとかすればいいじゃんって思ったり、家には「・・主義とか・・国家とか・・社会・・云々」の本が山積みになっていたり。家を飛び出したくなったり・・・。
一つ一つが鮮明に甦って来た。

母方の叔父が活動家みたいなことをしていて、私たち家族はその頃は団地に住んでいたので、この映画に出てくるアパートメントの空間とも似ていて、あのモクモクとした何ともい得ない空気を思い出してしまう。叔父はたまに、こっち(東京)でシンポジウムや会合があったりすると、夜遅くに泊まりに来ては、お酒とタバコの煙をいっぱいにさせて、話し込んでいた。で、必ず「カンパ」をもらって帰っていく。母は「お金ばっかりせびって・・」と愚痴を言いながらも毎回カンパしていた。子供心に、「だったら、お金あげなきゃいいじゃん。」と思って、母にそう言ったことがあったのだが、「何も分からないのに、偉そうな事言わないの!おじちゃんたちの考えがあるんだから。」と怒られた。せめて、「お土産ぐらい持ってきてよ!」と頼んだら、コンビニ(その頃はキオスクだったかも)のしょうも無いまずいケーキだったので、後悔した。うれしかったお土産は「ハタハ」のバッチだった。コカコーラのバッチよりカッコイイ!と思った。母は「このバッチをくれた人は、今生きているか分からないのよ。」と言っていた。お気に入りのカバンにつけたりブローチ代わりにしたりして大事にしていたのだけど、中学生ぐらいの時にうっかり服に付けたまま洗濯機にかけてしまいひん曲がってしまった。
数年後、テレビで中東問題がニュースで流れ始めた時にこのバッチと同じデザインの旗をたくさんの人が振っている映像を目にした。

叔父達がやっていた大阪の農場にも2回ほど行った。よそ行きのレースのついたピンクのワンピースにリボンのついた麦藁帽子を身につけた私は絵に描いたような都会のお嬢ちゃんで、ひげモジャのオヤジ達にからかわれたのを思い出す。帰りしなに「大人になってもタバコなんて吸わないし、こんなところにもう来ない!」とギャーギャー泣きながら叫んで帰ったこともあった。

子供の頃は本当に理解できなかった。
私よりも叔父の子供(従兄弟)達の方が苦労は大きかっただろうと思う。この年になって色々分かってくると、叔父達のがんばりは理解できるようになった。従兄弟は自分達の父を尊敬しているし、たくましく生きているなぁと思う。

でも、子供の頃はあの映画の少女のようにふてくされていた。眉間にしわを寄せて「なんで!」と叫びたかった。
今、叔父のやっていることが理解できるだけに、この幼少時の記憶を思い出すこの映画は「ちょっときつかった」というのが本音。

実は、この映画を見に行こうと決めていた前の日当たりに、「あんた、「全部フィデルのせい」って言う映画、すごくいいから見に行きなさいよー」と、おせっかいにも母から電話が来たのであった。その時は「ああ、それ見に行くよー」と答えただけだったのだが・・。
母はどう思って薦めたのだろう・・・・・。
2008年 11月 2日 (日)

バックナンバーリスト Powered by HL-imgdiary Ver.3.00