詩集「並行四辺系 外伝」
作家の高橋貞雄さんから、詩集「並行四辺系 外伝」が届きました。

細麿(太田)に「音源から詩を作ってみたいので・・」ということで、丁度、並行四辺系の音があったので、送ったところ、興味深い作品になって返って来ました。言葉を追いかける人の音に対するイメージもまた面白いなぁと思うのです
(2012年 11月 30日 (金))

寒くなってきたので・・・
チゲ鍋!

(2012年 11月 29日 (木))

寒くなってきたので・・
朝のコーヒーがすぐに冷めてしまう・・・涙。

で、苦肉の策・・・。

これ、ティーポット用なのですが・・・
蓋は、落し蓋なのですが・・・

温かさは持続するので、いい感じです・・笑。
(2012年 11月 28日 (水))

FBでのやりとり・・・
K氏:経験の質の問題として、ミュージシャンとされる即興と無伴奏のパフォーマンスとでは、無伴奏のほうが本質的なことをされているように思えます。なんというか、即興と共演していても無伴奏で踊っているような。なにかと似ているということで思い出してみると、私の個人的な経験では、「小町風伝」とか「水の駅」とか、30代に見た太田省吾さんの無言劇に直結するものとして感じられているようです。彼らの舞台でも、動きはとてもゆっくりとしていて、一般的に「能楽」のようだと言われていました。言葉はなく、廃墟のような場所で、なにか物質的なものをつねにインデックスしていたのでした。いつか能舞台で踊る木村由さんを見てみたい! きっといつもは隠れているものが、身体の奥から吹き出してくるのではないかと想像します。

S氏:身体は様々な経験を介して感覚と意識を刻んで、その人としての身体へと発酵していくのだと思います。ですから、その身体へと刻まれていく様々な影響を自ずと浴びているので、何かに「似ている」と云う身体の積み重ねてきた「傾向」を屡々垣間見る事があるのだと思います。完全なるオリジナリティーは成り立ち得ず、と云うよりoriginalはorigin故で、その行為を介して「現在」或いは「存在」に対しての源泉・起源等を感じとり得る機会として、木村サンに限らない所謂芸術的行為は現出すると思われます。現出すると敢えて云うのは、結果的に感じとり得る機会として受け取り得る為で、その様な機会を生み出す事を意図してのものだとは思えないからです。語られ続けられる行為は、似ているとか似ていないとかを越えて圧倒的な芯なるエネルギー、意識の充実を受容し得る状態をいつまでも現出させられ得る存在感を醸し出している様にも思われます。

由: ちゃぶ台ダンスを見た方に太田省吾さんの演劇に通じると、以前にも言われた事があります。彼の舞台は見た事が無かったのですが、その後、色々調べてみたら、確かに何か通じるものはあるのかもしれないなぁと、感じました。音楽家との即興では、其々表現者として、どう対峙できるのか、その結果、空間や身体、音に何が生まれてくるのか?!変化していくのか?がとても興味があるところです。踊りの本質というと、ソロがあっての事なのですが、違う角度での踊りの提示や模索も、必要だと思っているし、ワクワク(excite!)するところでもあります。

K氏: 大野一雄さんや田中泯さんを含め、かぎられたダンサーの方しか見ていないのですが、それを前提にして言うと、みなさん劇的な(演劇的なドラマツルギーといってもいいかも)表現を身体的にあらわそうとすることが多いように思います。木村さんのダンスからはそうしたことがあまり感じられません。物語性とか記号などを極力排したような表現に感じられます。それが太田(省吾)さんの劇作の基本でもありました。演劇は放っておけば自然に劇的なるものになっていってしまうが、そうしたことをはぎとれるだけはぎとってみて、それでも成立する「劇」とはなにかを問うていらしたと思います。それは身体へと局限されていくのですね。なんせ時代はポストモダンでしたので、そうした喧噪から離れて身体を立てるにはどうしたらいいかが模索されていたのですね。私には、木村さんもおなじことをしているように感じられるのだと思います。

由: 「物語性とか記号などを極力排したような表現」そうですね、でも、結局は身体の知覚から動きが出てきてしまうのは否めない所でもありますが(苦笑)そうした身体を通しても、私には「人間賛歌」「劇的」のような所にいかないようで・・・。そういう点で、太田省吾さんの「能楽」のような舞台と共通する所があるようです。去年、「水の駅」(演出・構成 キム・アラ)を世田パブに見に行ったのですが、私は一番桟敷?の3階席から舞台を見たので、様々な人が行き来して、坦々とゆっくり過ぎてゆく時に感銘したのですが、ある方は「人間臭さが無い演出で物足りない。。」といっていました。「なるほど・・」とも思うのですが・・・笑。

K氏:「水の駅」再演したんですね。音楽はなにが使われていたんだろう? 以前は、毎回のようにエリック・サティで、ほとんど耳ダコ状態でしたけれど、いまもそうなのかな。あれっていわゆる「壁紙の音楽」で、いま木村さんがされている音楽家との即興セッションとは対極にあるものですよね。あるいは稽古のときに流されている音楽をFBのビデオで聴きましたけれど、あれともまったく違いますよね。ダンサーの耳って興味深いです。

由: サティだったような・・・笑。いわゆる舞台の音って、「有りモノ」で耳ダコ「壁紙の音楽」(笑)同感です。演者や演出家も、もうちょっと音に対して考えてもいいように思うような舞台は多いですね。そういうものからも離れたいし、面白みを感じない。立体化した身体や音がないと、本当の意味でリアルな場にはならないと思うのですよ。。壁紙の音では体の中まで動かすことは出来ないんじゃないかな?雰囲気や情緒で踊ることは出来るだろうけど・・・興味が無いんですよね・・・笑。
補足(?)私の場合、体の中まで動かすと言うのは、実際に物理的に動かしてみるとい事ではないようです。ある方がこの間の江古田のライブを見て「何であのような形がかのうなのだろうか・・」と言ったそうです。同時に同調して肩や首筋がこりこりだったらしいのですが・・・苦笑。音に合わせて単に体を動かすっていうダンサーも居ますし、それはそれで、色んなバリエーションを探ったり面白い動きが出たりして発見も多いと思います。何より、見ていても、やっていても楽しいだろう。しかしながら、根暗な私はイマイチピンと来ないようです・・苦笑。

K氏:音楽とダンスの関係って基本的に、というか、古代から「同調」ですよね。リズムにどれだけ乗れるか、あるいはみんなで踊るという身体解放がある種の自由につながっていくと思うのですが、即興演奏はそうではないんですよね。リズムをはずすというのではなくて、もっとたくさんのリズムを解放する、みたいな感じだろうか。言葉にしようとすると難しいですけれど。「根暗」というのでなくて、もっと正確に言うと、ゆうさんは共同体指向ではない(これってモダンダンスの起源といえる?)ということだと思います。だから個人主義かというと、そうでもないところが身体の不思議というのでしょうか。身体にかかわる人の生き方の個性につながっているように思います。ゆうさんがいつかおっしゃっていたように。この身体ということでは、演奏家もおなじようなあり方をしていると思います。だから共演が自然に感じられるんでしょうね。

由 :類的存在ってところでしょうかね(笑)。確かにそのほうが、私にとっては自然に感じられるのかもしれません。
身体性(あるいは、独自の空間性)のある音楽家というと、即興演奏家に通じると思うので、そう意味でも、表現として作業してみたくなるは当然かな。と思います。

K氏: ゆうさんのなかに、他の人にはない(種類の)即興のタネがあるというふうに感じますので、まだまだずうーっと先までいきそうですよね。いったいなにがでてくるんだろう。とんでもないものが出てきたらどうしよう。

由: 出てこなかったらどうしよう・・・笑。
(2012年 11月 27日 (火))

Fragments vol.14@江古田フライングティーポット

記念写真。ご来場ありがとうございました!

撮影:北里義之さん 
(2012年 11月 19日 (月))

りんちゃんのスカート☆
法事で従兄弟の娘のりんりんが、私が幼い時に着ていたスカートを着ていて、感動。。

本人は
「私、可愛いって言われたらどうしよー。」
と、言っていたらしい(笑)

何回も「可愛いー。」と言ってしまったが、

本人は「男の子にモテちゃうかもー。」とも・・・。

おばさんにモテてもしょうがなかったかしら?(汗)

でも、本当に可愛かったし、うれしかったよー。
2012年 11月 18日 (日)

国立稽古主宰のお二人と・・・不思議な半日。
いつもなぜか?!急に決まり、鵠沼海岸で可笑しな半日を過ごす。

(2012年 11月 9日 (金))

やっと??!間に合った?!!
じぃちゃんの葬式の時のお餅が、冷凍庫で眠ったままだったので、じっくり素揚げして、あんかけにしたら、すごく美味しかった!七回忌を前に、無事に完食できてよかったー。(って、どれだけ寝かしたん?!!苦笑。)
(2012年 11月 5日 (月))

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